続・デザイナーの夢
子供の頃の夢はデザイナーだった。
服飾大学に入学した私は昼も夜も布と格闘した。
そう、本当に文字通り昼も夜もだ。
学校の名称こそ大学だったが中身は専門学校さながらの過密カリキュラムで、浮かれた女子大生のきゃぴきゃぴキャンパスライフなんてものとは縁遠い世界だった。
課題、課題、また課題だ。
学生の中に講義時間だけで課せられた服を縫い上げられる者はいなかった。
そうなると当然できなかった分を家で仕上げることになるのだが、持ち帰るのがまた一苦労で、縫い途中の服、裁縫道具、教科書、ひどい時はスタン(トルソーのことだが、うちの学校ではそう呼んでいた)まで持って帰った。あまりに過酷な重さなので一度計ったことがある。20キロあった。
夏休みも例外ではなかった。
山のような宿題が出され、中でもデザイン画を100枚以上描いて来いというのには辟易した。無いアイデアを絞り尽くすとしまいにはとんでもないデザイン画になる。
美川憲一か小林幸子しか着こなせないだろ!と突っ込みたくなるような意味不明なド派手な衣装やら、武田久美子の貝殻ブラだろそれ!というような提出すればするほど点が下がりそうな絵だ。そんなものを新学期に皆で見せ合って爆笑するのだ。
大学生になってまで毎日宿題に追われるとは思ってもみなかったが、そこに4年間通い、綿ブロードから毛皮まであらゆる素材の縫い方から、平面作図、立体裁断、ドレーピング、CAD、デザイン、服飾に関することなら布だけではなく、手編み、機械編みの講義まであった。
入学した時から将来はアパレル関係の職に就くという明確な目標はあったが、子供の頃に夢見たデザイナーにはこだわっていなかった。
ドレーピングもパターンも縫製も性に合っていたし、デザイナーでもパタンナーでも、ものを作れる仕事であればそれで良かった。
そう思っていたのに、いざ就職活動シーズンが近づくとやはりデザイナーを志望した。
理由は単純、カッコいいからだ。
それともう一つ、❝手に職❞ 系の学校は学費が高い。
正確には学費だけではない。入学早々から、専門書、職業用ミシン、ロックミシン、スタン、まんじゅう、細々した道具類・・・数え上げたらきりがない! それに加え課題ごとに材料費が掛かる。
それだけのお金を「かわいい娘の為に」と両親は惜しみなく出してくれているのだ。
自分がなれる一番上を目指さなくてどうする。そう思ったのだ。
もちろんパタンナーだって立派な専門職なのは分かっている。
だが、デザイナーは同時にパタンナーの技術を持っている必要があることから、デザイナーになる方が難しかったのだ。
それに「うちの娘はデザイナーです」って言ったら「なんか分かんないけど凄そう」となりそうだが、「うちの娘はパタンナーです」と言ったら多分「パタンナーってどんな仕事?」と聞かれ説明が必要だろう。
(誤解のないように、当時、私が入社しようとしていたアパレルメーカーはどうしてもデザイナーの地位が高かった。募集人数も一番少ない難関だった)
そんな訳で、当時好きだった国内ブランドを有するアパレル企業一社に絞り、デザイナー採用試験を受けた。
私は溢れんばかりのデザインセンスと才能を持ち合わせた人間ではなかったが、オジサン受けがいい ❝しっかりしていそうな性格❞ と、自分を売り込む ❝プレゼンの力❞ を武器に試験をパスしてデザイナーになった。何より運が良かったと思っている。
果たして念願のデザイナーになれた訳だが、華やかそうなイメージとは裏腹に、それはそれは過酷な職場だった。
あんなにキツいと思っていた学生時代が天国のように思えた。何でもそうだが、お金を稼ぐのは大変なことだ。
夜の9時から会議なんてこともザラだったし、土曜日も出勤だった。残業代は出たが、基本給は安かった。今だったらブラック企業!と訴えられそうだ。でもアパレル業界のメーカーはどこもそんなものだった。
どんなブランドだったかと言うと、CanCam や Ray などに載るようなおねえちゃん系の服だ。フジテレビの若い女子アナがめざましテレビで着るスーツを貸し出したりもしていた。20年前の話だが・・・。
同期入社は一人もいなかったが、先輩や上司は若い人が多く活気があった。
社内には3つのブランドがあり、それぞれにチーフデザイナーがいてが全員男性だったが、もれなく皆オネエ系なのが如何にも過ぎて笑えた。ストレートで既婚者なのに、婦人服を作る男性は物腰が柔らかくなるものなのだろうか?
時代はバブルがはじけて数年後、いよいよ本格的な不況に突入しようかという頃だった。
当時のユニクロなどファストファッションが幅を利かせるようになり、うちのような会社の多くは業績不審に陥りブランドイメージなどの方向転換を余儀なくされた。
厳しい時代だった。
入社して4年後、その煽りを受けてチーフや先輩デザイナーの大半と共に会社を辞めた。
(現在、その会社は有名海外アパレル企業に買収され、私が所属していたブランドごと跡形なく消滅してしまったと聞いている)
退社後、他の企業でデザイナーを続けるか迷った。
なぜなら、私は服が作りたかったのだ。
デザインすることはもちろん服作りの大事な工程だ。でもそれと同じくらい、いや、それ以上にパターンの良し悪しが服の出来栄えを左右する。どんなにいいデザインをしても形にできなければ意味がないからだ。
企業で一着服を作るまでの工程は分業制だった。
私たちデザイナーがデザインする。それだって好き勝手ではない。企画会議を何度も経てデザインを決め、素材を決め、そしてそれをパタンナーに形にしてもらうのだ。サンプルが出来ると担当デザイナーがチェックして修正を加え、サンプル工場で実際の生地で試作する。
大まかにはこんな感じだが、自分が担当したデザインの服が店頭に並んでも、街でその服を来た人を見かけても、 ❞自分で作った服❞ という感覚は薄かった。
ではパタンナーになっていたらどうだろう。作った感はあるかもしれないが、こちらはこちらで、デザイナーから来た指示通りに形にしたまでで、いくら重要工程でもやっぱり裏方だと思ってしまっただろう。
じゃあ、自分でブランドを立ち上げればいいじゃん!
そんな力がある人なんて、ほんとにほんとに一握りだ。
学校出たって、会社で少々経験積んだって、この業界で一人立ちして稼ぐなんて本当に才能を持った人でも難しかったのだ。
「自分の作った服を売る」ということは物凄く大変で、敷居が高かったのだ。
贅沢な話だが、私はアパレル企業のデザイナー職に魅力を感じなくなっていた。もっと、何かを作り出している実感が欲しかった。パタンナーも同じだ。やっぱり人に言われたものを形にするだけで面白みに欠ける。
そのまま同じようにアパレル業界で仕事をすることに疲れてたし、過酷な業務で20代半ばだというのに胃潰瘍になったのも要因だ。
まあ、色々言い訳してみたが、要するに負け犬だ。
その後何を思ったか、ジュエリー工房で職人修行をするといった、また凝りもせず全く違う業界に飛び込んだのだが・・・。
職人を絵に書いたようなおっちゃん達に混ざって真っ黒になりながら黙々と作業し、ひたすら腕を磨く毎日を送った。
・・・長くなったので、その時の話はまた書きたくなったら書こう。
結局何が言いたかったのかも次に書きます。
長々とつまらない話を読んで下さった方、ありがとうございます。お疲れさまでした。
こんな自己満話しを、もったいなくも楽しみだと言ってご自身のブログでご紹介までしてくださった、 大沢卓也 (id:Handicraft_man) さん。
ありがとうございます。恐縮です(/ω\)
制作、頑張ってくださいね! 影ながら応援しております (*^-^*)